2024
07.23

和絞房 髙橋 知聖さん

PERSON, 伝統工芸

母から娘へとつなぐ、京の伝統工芸「本疋田絞り」

中央に座るのが知聖(ちせ)さん。京鹿の子絞りと呼ばれる技法の一つである「本疋田(ほんびった)絞り」を専門にする職人です。本疋田絞りは昔から女性の仕事で、母から娘へと受け継がれてきました。知聖さんの両隣が、3代目の川本和代さん(右/伝統工芸士・瑞宝単光章受賞)と4代目の髙橋 庸子さん(左/伝統工芸士)で、知聖さんが5代目です。

知聖さんがこの道に入ると決めたのは、小学校6年生の時。自分が継がなければ途絶えてしまう、という思いからだったそうですが、それにしても強い意志に驚きです。今回は、「文化をつなぐこと」の意味を考えながら、お話を伺いました。知聖さんにも問いかけてみましたので、そちらは文中でお読みください。

本疋田絞りとは

本疋田絞りは、京鹿の子絞りを代表するもっとも高級で高価な絞り技法です。紙製の指ぬきと絹糸を使い、職人が10本の指で一粒ずつ丁寧に絞るため、多くの手間と時間がかかります。4~5回で巻き上げて2回締める、この繰り返しです。粒の数は一尺で45粒、着物一反で15万粒、振袖に至っては17万粒にもなります。

絞りは下絵に沿って行います。下絵には、青花(あおばな)と呼ばれるツユクサの花の汁が用いられ、この青い液は布に付着しても染まらずに、水で流れ落ちるという特性を持っています。絞り終わると染色の工程に入るわけですが、この時に染め屋で「花落とし」を行います。花落としは、布を水に一晩漬けておいて青花が水に溶けて流れるのを待つ作業のことです。こうすることで、布は真っ白な状態に戻り、絞られた部分のみを白く残して染められます。

青花で描かれた下絵に従って絞る

着物一反を仕上げるには、絞りだけで1年、下絵や染色の工程を含めると3年はかかります。一度絞り始めたら、最後まで同じ職人が絞らなければなりません。左から右へと布のバイアス状に、粒のてっぺんがなるべく真ん中に来るように、コツコツと。職人が途中で交代できないのは、職人ごとに少しずつ絞り方が異なるからです。

数十年前は数多くの職人がいましたが、今では10人もいないそうです。3世代で活躍する和代さん、庸子さん、知聖さんは希少な存在です。

座布団一枚あれば、どこでもできる仕事

本疋田絞りで使用する絹糸は、22本の糸が甘撚りになった鹿の子専用のものです。見た目は1本の糸ですが、布に巻き付けるときに指でうまく力加減を調整して、22本の糸が少し広がるように巻き付けながら、隙間ができないように絞っていきます。絞りの粒に隙間ができて、本来白く色が抜ける部分に染料の細い線が入ってしまうと、「ハラキレ」と言って失敗作になってしまいます。言葉の由来はその様がまるで切腹した人の姿に見えるからだそう。さて、絞りはとても繊細な作業で、粒をつまむところまでは目で見るものの、そこから先の作業は目で追うことができません。指の感覚のみで正確に仕上げていきます。

ポンポンという音を立てて軽快に進む

本疋田絞りに独特なポンポンという音は、糸と指ぬきが擦れる音です。西京区の西山が本疋田絞りの本場で、昔は夏の夜に町を歩くと、ポンポンと夜なべする音があちこちの家から聞こえていたそうです。

座布団一枚あればどこでも作業が可能ですが、慣れた空間で落ち着いて作業するのが一番で、皆さんそれぞれにお決まりの場所があります。「やり始めたら、瞑想状態になる」と知聖さん。心の乱れは絞りにも表れるため、平常心で絞り続けることが大事だそうです。

おばあちゃんの仕事は「凄まじい!」

知聖さんが本疋田絞りを初めて意識するようになったのは、5歳の頃。母である庸子さんが本疋田絞りを始め、日常的に触れるようになったことがきっかけでした。そして、小学校6年生の時、同い年のいとこが和代さんに習い始めたことで、知聖さんもやってみることにしました。

本格的に始めたのは16歳の時で、それまでは「手習い」だったと振り返りますが、美術方面の高校へ進学するために画塾に3年間通うなど、着々と準備を進めていたそうです。

さて、12歳で初めて本疋田絞りを体験したわけですが、やってみたからこそ技術の高さが分かり、「おばあちゃんの仕事は凄まじい!」と感じたそうです。その時の気持ちは、言葉で表現するなら「雷が落ちた感じ」。よほどの衝撃だったのでしょう。

和代さん作のストール

時代を超えて

和代さんの時代は、問屋からの仕事を難易度に応じて職人に振り分ける「セリヤ」がいました。セリヤとお母さんが相談して、上達の具合を見て仕事を振ってもらえるため、段階的に成長できる土壌があったとか。その代わり、出来が悪いと目の前でパッとほどかれてしまうなどの厳しさもあったそうです。

和代さんは、周りに競争相手がたくさんいて、自分との戦いで一生懸命に技を磨きました。上達しないとよい仕事を回してもらえません。「たくさん絞ろうとするのではなく、まともな粒を一粒くくること」という、和代さんの母である2代目の言葉を胸に刻み、鍛錬し続けました。その結果、和代さんは本疋田の第一人者になり、お客様と直取引でお付き合いするまでになりました。

和代さん作の訪問着「秋明菊」

伝統の技は変わらなくとも、周囲の環境は激変しています。知聖さんが本疋田をやると決めた時、和代さんは「絞りだけでやっていける時代ではないから、1人でなんでもできるように」とアドバイスしたそうです。着物の需要が減るにつれ、問屋が減り、セリヤがいなくなり、下絵職人や染色職人も減り続けています。絞りを極めても、下絵を描いてくれる人がいない、染めてくれる人がいないという時代がやってくるのではという危機感があります。

知聖さんは環境が変わっても1人で全部できるようにと、下絵や染色の勉強もしました。着物だけでなく、庸子さんと一緒に小物づくりにも始めました。これまでは問屋から受けた仕事をやってきましたが、2年後には伝統工芸士の試験を控えており、伝統工芸士になれば世界が広がりそうです。自身の作品作りや販路の開拓、まったく異なる分野の協業パートナーを探すなど、新しいチャレンジをやっていきたいと意気込みます。

文化をつなぐとは

「自分の代で途絶えるのが嫌だ」という思いで、本疋田絞りの世界に入った知聖さんに、「知聖さんにとって、文化をつなぐとはどういうことでしょうか」と質問してみました。知聖さんは「難しい質問ですね」と笑いながら、「伝統工芸というと大きく感じられけれども、極小単位で考えると、生活のすべてが文化。その中の特別な例が鹿の子なだけ」と語り始めました。

本疋田絞りは、もともと手先の器用な農家の女性が、農作業のない暇な時期にやってみたのが始まりだそうです。1人の農家の1粒の手仕事から始まったものが、積もり積もって伝統文化に育ちました。

知聖さんにとって、本疋田絞りを受け継ぐことは、「家の思い出をつなぐ」ことだと言います。代々、大切な家族がやってきたことを明日につなぎたい。それは、伝統工芸でなくとも、おばあちゃんやお母さんに家庭の味や生活の知恵を教えてもらったりするのと似ているのかもしません。

一粒の積み重ねが作品になる